Gazes Also

…もまた覗く

至上の愛、に纏わるいくつかの断片

「試合をしている時は、いつでも、誰との試合でも、愛を感じます」

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潮﨑豪がそんな話をしたのは、2019年10月29日に行われた「プロレスリング・ノア写真展 PHOTO THE LIVE! encore+」の中で行われたトークショー「潮﨑と宮木」でのことだった。

来場者が書いた匿名質問に答えるというコーナーで、質問は「最近愛を感じた瞬間は?」というものだった。プロレスラーにかける質問としては珍妙な部類に入るが、質問者は恐らく、最近とみにタッグ愛を強調している潮﨑と中嶋勝彦のユニットAXIZに関連する答えを期待していたのではないかと思われる。

「試合をしている時は、いつでも、誰との試合でも、愛を感じます。だって愛が無かったら、相手の攻撃を正面から受けることも、相手を全力で攻撃することもできません。愛があればこそ、なんです」

詳細なメモを取っていなかったので、このエントリ内のカギカッコは記憶をべースにした要旨になるが、潮﨑は上記のような回答を、質問を聞いてからほぼ間を開けずに言い切った。ここで語られている「愛」をもう少し一般的でわかりやすい言葉にすれば「信頼」だろう。

続けて、彼が特別に激しい試合をしてきた相手である杉浦貴に関してはこんなことも言っていた。

「他の選手との試合と見比べたりするんですけど、杉浦貴、俺の時だけ特にエルボーきついですよね?」

これもまた上記の理論で言えば、杉浦の「特別な愛」ゆえであるということだ。そしてその「特別」なエルボーを受けるのも愛ゆえなのだと。ウェルターズオリジナルのCMフレーズのようだがキャンディではなくエルボーの話である。

「だから、清宮と拳王もね。拳王がああいう攻撃をしたのも、愛があるから……だと思います。清宮を信じているからこそ、ああいう厳しい攻撃をした。清宮は大丈夫ですよ。拳王の思いに答えて必ず立ち上がってくるでしょう」

このトークショーから遡ること1週間前、10.22浜松大会メインイベントの6人タッグで、拳王は清宮が稲村をタイガースープレックスホールドで投げたそのブリッジの腹にダイビングフットスタンプを敢行。首で姿勢を支えていた清宮は大ダメージを負い、担架送りとなっていた。年間最大のビッグマッチ、11.2両国大会でメインを争う二人の、最後の前哨戦で起きた事件は、ファンの間でも賛否両論分かれる…というより否の反応の方が多く、拳王は強い批判に晒される事態となっていた。
潮﨑はこの試合で中嶋と共に、清宮のトリオのパートナーとしてリングにいた。すぐ傍で担架で運ばれる清宮を見てのコメントである。清宮は必ず立つ。当事者間にしかわからないものがあり、当事者間では納得ずくなのだ。だからみんな不安だろうけど、信じて見守ってほしい。そんな言葉の後に、潮﨑はこう言った。

「三沢さんが言っていました。試合でケガをするのは、技を受けた方の責任だと。もし……清宮がこのまま………………ダメになってしまったとしても、それはあいつの責任なんです」

あいつの責任。なぜこのイベントの話を冒頭から書き連ねているのかと言われれば、この発言に辿りつきたかったからだ。ケガは受け手の責任。それは愛の話の流れで言えばつまり、愛に応えられなかった、愛に値する自分を用意できなかった側の責任ということだ。

試合中のケガは、プロレスにつきものだ。だがこれを完全に「受け手の責任」とするのは、実のところ現代のプロレス界ではやや珍しい意見であるように思われる。元週刊ゴング編集長小佐野景浩氏によれば、かつてジャイアント馬場は「ケガをする奴は二流、ケガをさせる奴は三流だ」と語ったという。一流はケガをさせないし、ケガもしないという前提の上での言葉だ。これはどの年代の発言なのか、私の手元にソースはない。70年代、80年代、90年代でそれぞれ全日本プロレスの試合の方向性は異なっているため、発言年代によってそのニュアンスは変わるだろう。
小佐野氏はDropKickでの連載コラムのうちのひとつ「多発するプロレスラーのケガを考える」の回で、この発言の引用した上で「馬場さんはアメリカでビジネスとしてのプロレスを学んできたから、ケガをさせたら相手の生活が壊れちゃうことの重大さがわかってる」と指摘している。*1

個人の狭い観測範囲ではあるが、確かにアメリカンプロレスにおいても、基本的には「かけ手の技量の問題」とされていることが多いように認識している。トリプルHがペディグリーのクラッチを相手によって変えるのは有名な話だ。相手の技量を測り、技の強弱を調整できてこそ「試合巧者」であるという観念が通底している世界であるためか、受け手の責任が問われている場面は寡聞にして存じ上げない。

ジャイアント馬場の考え方に影響を与えたアメリカンプロレスの基本的なビジネス哲学は、テリトリー制時代に発展したものだろう。かつて全日本プロレスも加盟していたNWAは、全米のプロモーター達の共同体だ。NWAの王者となったレスラーは、各地のプロモーターが主宰する興行で、その土地のトップ選手と戦うサーキットに出る。王者はその土地のヒーローであるトップ選手と「良い試合」を行わなくてはならない。おらが街のヒーローが、もしやチャンプに勝つのでは? と観客がワクワク期待するような「魅せる試合」だ。それには圧倒的な技量が必要である。相手をケガさせてはいけないし、自分もケガをすることは絶対にできない。王者は全米規模のビジネスを回している。やみくもに明日なき試合をするわけには当然、いかないのだ。

またもう一つ、アメリカンスタイルに関して推測を加えるとすれば、アメリカ・カナダには団体内において新弟子をイチから育てる「入門制度」「寮(合宿所)」が、基本的に存在していないことに起因するところが大きいのではないだろうか。AWAにおいて70年に後から開設され、幾人もの名レスラーを輩出したガニア・キャンプなどの例外を除いて、アメリカ・カナダの新人育成は団体外に独立して存在するジムや養成所で行われる。これらは月謝を払って通う職業訓練校に近いものであり、雑用をこなすことで給料をもらいながら、住み込みで下積みを行う日本のそれとは大きく形式が異なる。

83年にNWAから離脱し、ニューヨークを拠点に発展を遂げ、ついに全世界№1の規模を誇るに至ったWWF……現代の「プロレス観」において最大のヘゲモニーを持つ現WWEにおいても同様に、「入門制度」は存在しない。スーパースター達はスカウトによって集められている。ただ、団体のシステムや気風にアジャストさせるための一定の「訓練期間」は設けられており、例えばアティテュード期にはドリー・ファンクの道場にスカウトされた候補者を送りこんだりもしていたし、一時期のOVWなどの契約下にあるファーム団体で一旦デビューさせるなどということは行っている。現在のNXTもかなりこれに近いだろう。だが、いずれにしてもすでにある程度の実績を持った選手を集めたものであり、「新弟子」をイチから、というものではない。*2。もちろん、出会って後に次第に仲良くなり……という関係性はいくらも存在するものの、その膨大な競技人口もあって、基本的にそれぞれに経験を積んできたプロフェッショナルな他人同士が邂逅し続けるのがアメリカンプロレスだ。ただ、ビジネス哲学とリスペクトだけが、彼らの明日を保証している。

 

一方、日本の団体には、ほぼすべての団体に「入門制度」「寮」がある。相撲の部屋制度を日本プロレスが引き継いだからだ。この制度の絶対的なアドバンテージは、間違いなく相互理解の高さと言えるだろう。寝食を共にし、下働きとして朝から晩まで駆けずり回り、同じ道場で同じ練習メニューをこなしデビューした「同期」に至っては、相手が何が得意で何が弱点なのか、どんな性格でどういう癖があるのか、嫌でも把握する。
ただ、海外のスター選手を大量招聘し、外国人選手対所属の日本人選手という図式を長らく続けてきた80年代までの全日本プロレスにおいては、試合においてその「同じ釜の飯」効果が最高のレベルで発揮されたとは言えないだろう。全日本における日本人トップ同士の試合の先駆けである長州対鶴龍も、鶴田対天龍も、ジャンボ鶴田以外団体の「新弟子からの生え抜き」とは言い難い以上、除外される。「同じ釜の飯」効果が100%発揮されるには、90年代を待たねばならなかった。つまり、四天王プロレスの萌芽とその最盛期である。

さて、ここに至ってようやく本題に辿りついた。
潮﨑の…というより三沢光晴の「受け手の責任」発言である。
三沢は一体どのような心境で、そんなことを潮﨑に言ったのだろうか。
理解の補助線としてあげられるのは、三沢と同じく四天王の一人である小橋建太が、四天王プロレスこそ危険技をエスカレートさせた元凶である、というような批判に回答する形で主張した「自分たちは同じ釜の飯を食い、同じ道場でずっと一緒に練習を続けてきた。お互いの受け身を始めとした技量に対する圧倒的な理解と信頼があればこそ、激しい試合を行うことができたのだ」という旨の反論だろう。
これは逆に言えば、お互いの腹を知らない他人同士では、危険な試合はできない、すべきではない、ということだ。
つまり「かけ手の責任」を重く見るジャイアント馬場全日本プロレスに在りながら、三沢が「受け手の責任」という観念に辿りついたのは、お互いへの圧倒的信頼に支えられたこの環境……新弟子からの「生え抜き」で「ほぼ同期」の4人が、近しい立場で何度も何度もやりあい続けられる環境あってのことである、と推測できる。*3
97年1月、三冠ヘビー級王者として挑戦者三沢光晴を迎え撃つことになった小橋建太は、母親に「もし俺に何かあっても、決して三沢さんを恨まないでくれ」という電話をしたという。
何かあっても……という言葉の先に浮かぶのは「死」の一文字だ。
この試合は一線を超える必要があった、と小橋は言う。
一線を、死を超越するものはお互いへの深い深い理解と信頼……すなわち潮﨑の世界観に即して言葉を選べば、「愛」なのだ。

極限に高めた心技体、その上にある深い相互理解と信頼。
愛しているがゆえに全力の技を出し、愛しているがゆえに全力の技を受ける。
恐らく、これこそが四天王プロレスの本質的テーゼのひとつであった(少なくとも、三沢と小橋の間ではそうだっただろう)。
そしてそのテーゼは三沢光晴が旗揚げした団体、プロレスリングNOAHに受け継がれる。
ゆえにこそ、NOAHの所属選手はこのテーゼ…命題を共有している。しなくてはならない。そしてこの命題を核に作られた団体においてそれはもはや、「同じ釜の飯を食った」生え抜きだけの共有に留まらない。例え途中参加の選手であっても同様でなくてはならない。例えば齋藤彰俊であり、拳王であり、それぞれに出自を持った選手であるが、彼らもまた命題の共有者だ。

三沢が最後に受けた技……齋藤彰俊の美しいバックドロップは、それこそ三沢光晴が百万回も受けてきたであろう正確無比なバックドロップだった。齋藤彰俊に咎はない。齋藤彰俊三沢光晴を「愛して」いたからこそ、いつも通りのバックドロップを敢行した。

清宮海斗が首の負傷により担架で運ばれたという一報を目にしたプロレスファン、特にNOAHファンは、恐らく一様に三沢光晴を思い出しただろう。やりすぎだ。三沢を想起したファンの多くがそう思ったことは間違いない。2019年のプロレスファンの多くが、プロレスラーのケガに際し、「受け手の責任」ではなく「かけ手の責任」ないし「やりすぎ」を責めるのは、三沢光晴の死を通過しているということが大きいだろう。
だが、2009.6.13広島大会で、まさにそのリングにいた"三沢光晴最後のパートナー"潮﨑豪は、そうは思わなかったのだ。
そして多分、三沢本人もそう思わない。
責任は誰にあるのか。
それは、愛に応えられなかった受け手である、と。*4

この世界観においては、ただ愛だけが明日を保証する。しかしその愛は、無条件の愛ではない。愛するため、愛されるために己自身の価値を高め、維持し続けなくては破綻する、残酷な側面を持った愛だ。
2019年7月3日にタイトーステーション溝の口店/MEGARAGEで行われたYoutube配信番組「コテアニのなんか来た!」にAXIZとしてゲスト出演した潮﨑は、「一生プロレスがしたいか?」という質問に関して次のような発言をしている。
「思ったような動きができなくなった姿は見せたくないですね。引退試合もしたくないです。動けなくなったらある日こう……ドロンって。カード発表されて、あれ、潮﨑の名前が無いなって」「俺はいつの間にかいなくなっていると思うんで」
要するに、失踪すると言っているのだ。口調自体はいつものおちゃらけたものではあったが、その場で思いついて気軽に言うような内容ではない。*5横で聞いていた中嶋勝彦が「それはダメでしょ」「そうなったら俺が引っ張り出します」とツッコミながら、レスラーがそういった「ダメになる前にリングを下りたい」という心境に至る理由を丁寧に補足説明していたのが印象深い。明らかにあれは急に怖いことを言い始めた相方への「フォロー」だった。
愛される価値を維持できなくなった者は、愛に値せぬ者は、消えなくてはならない。何故なら、その先に待っているのは――……。

大回りをしたが、トークショーの話に戻ろう。このトークショーで語られた言葉から読み取れるのは、潮﨑が今、AXIZとしてパートナーや試合相手を対象に語る「愛」とは、そういった種類の愛であるということだ。キャリア15年目、自分のプロレスを成立させているのは「愛」だ、と彼は気付いた。死を超越し、永遠に至るものは愛だけだ。
Twitterの文字列として見る「愛を感じて欲しい」などといった言葉には、どこか軽い雰囲気があるゆえに「浮ついている」と思う人もまあまあいるだろう。だがこのトークショーを踏まえる限り、彼の「愛」の根底にあるのは浮つきとは無縁の、壮絶なものであると私は言い添えたい。*6

そして……また同時にこの話は、潮﨑豪が今まで語ることの無かった、三沢光晴の死に対する「折り合い」の話でもあるだろう。
私の知る限り、これまで彼は正面からこのこと……三沢の死に纏わる事柄について、ファンの前で語ったことはなかった。
2009~2012年のNOAH時代は、三沢の49日を過ぎてから行った齋藤彰俊との王座戦以降、6.13の出来事に関して殊更に言及することは、少なくとも表向きには無かった。
NOAHの生え抜きであるということを極力出さないように努めていた全日本時代は当然のように皆無である。例外的に2015年6月に発売された長谷川晶一『2009年6月13日からの三沢光晴』のインタビューで、かなり詳細に当日の出来事を語っているが、「どう思っているのか」という点に関しては特に言葉を費やしてはいなかった。
フリー時代、サムライTVの番組「バトルメン」に出演した時に、これまで経歴をまとめたVTRの後、6.14の博多スターレーンでの王座戦の心境について質問されたが、その答えは「全員が一睡もしていなかった。誰もケガをしなくてよかった」というものだった。

今、潮﨑がこうしてようやく三沢光晴の言葉を語れるようになったというのは、彼の中でひとつの覚悟が決まったという証ではないだろうか。それには10年の歳月を必要とした。今も十字架を背負う齋藤彰俊と同様に、潮﨑豪にも悔恨はあるだろう。タッグパートナーとして、「あの時、交代しなければ」「自分が代わりに受けていれば」そんなことを考えなかったわけがない。だがそれは言葉にしても詮無いことだ。
「人生たらればなし」
これも三沢光晴の好んで使った言葉だ。

2020年、「愛」を胸に闘う潮﨑豪の躍進を大いに期待したい。*7

 

「煙草の自販機の隣にある自販機に、クリームソーダが売られていた。それを買ってもらうために、煙草を買いに行く親父に付いて行ったのを覚えている」

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内省と心の整理、そして覚悟と言えば、潮﨑のタッグパートナー、中嶋勝彦も同様だ。ここ最近彼は「父親」に関して、言葉で語ることが増えたように思う(残念ながら私は過去の彼の言動を、潮﨑のものほどには追っていないので断言は全くできないが)。
上記の言葉は、2018年11月1日に行われたセイシュン・ダーツ青木泰寛主宰のトークショーにゲストで呼ばれた時のものだ。「最初の記憶は?」という質問に答えてのものである。3歳ごろの話だと言っていた。

微笑ましい子供時代の記憶だが、プロレス格闘技DX掲載の日記「勝日記」2019年11月29日更新分と合わせて読むと、全く印象は変わってくる。
有料コンテンツゆえ引用は避けるが、中嶋は5歳ごろ、このクリームソーダを買ってもらった実の父に捨てられた。*8取り残された母子家庭は貧困に苦しみ、彼は一刻も早く自らの力で稼ぐべく、15歳で格闘技・プロレスの世界へと入る。そこで「育ての父」佐々木健介に出会うが、やがて彼にもまた不意の引退という形で捨てられた。*9
拠り所となるはずだった父の愛の、二度に及ぶ喪失。だがその代わりに見出したのはリング上で感じる「愛」だったという話だった。ファンからの「愛」、信頼するパートナー、尊敬できる好敵手への「愛」。

ここに多く言葉を付け足す必要はない。
いくつかの断片的なエピソードを聞いた上で感じる佐々木健介中嶋勝彦の関係性は、まさしく父子であると同時に、明らかに社会通念上、未成年者への接し方として一線を超えているものがある……と思わざるを得なかった。中嶋は入門前から負けず嫌いで反骨気質があり、WJの中で出会った大人達の中で佐々木健介を選んだのは「一番練習が厳しかったから、一番間違いないだろうと思った」という、壮絶にストイックな理由であるほど個を確立した子供であったが、とはいえ、未成年者である。理不尽に耐え忍ぶため、この「父」の考え方に自分を同調させ、我を殺したところはなかったか。

弟子入りを希望して佐々木家に電話をした時、北斗晶に「茶髪だと(ファンの)おばちゃん達に嫌われるよ」と言われた彼は髪を黒くし、以来長年、純朴な「息子」、正統派ベビーフェイスとして闘い続けてきた。
そんな彼の突然のキャラクターチェンジは、2018年の春である。GTLの最中だ。私が最初に「あれ?」と思ったのは、4.9横浜ラジアント大会で、杉浦へのタッチを求める拳王を捕まえて、杉浦に向かって拳王の手をヒラヒラさせるというヒール的な挑発をしていた時だ。次第にそのヒールムーブは加速し、相手の気をそぐためのエスケープ、打撃合戦では相手の攻撃を嘲笑いながら避け、自分のキックだけは的確に入れるなど、バリエーションはどんどん増えていった。
この変化に多くのファンは驚いたようだったが、個人的感想としては「ついに素が出た」という感じだ。もともと、ベビーフェイス時代も、トークショーなどでたまに容赦なく厳しい発言をポロリとこぼしている側面はあった(大体「恰好だけで実が伴ってないヤツ」に対してめちゃくちゃキツい)。ただ優しく爽やかな青年というわけではないのだ、実際。
そして何より、この変化は過去からの解放でもあるだろう。自分で考えた方向性を初めて形にしたのだ。その姿は自由を得た喜びと充実に満ちて、輝いている。

 

「試合を通じて、会話したように思います」

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2年前、2017.3.12横浜文体で行われたGHC王座戦、王者として挑戦者潮﨑豪を迎え撃つこととなった中嶋勝彦は、同期デビューの潮﨑のことは13年前から意識していた、と述べつつも「今はライバル意識はない。今はない!」と「今」を強調しつつ思い入れを否定した。この当時、2015年11月にNOAH再参戦して以降、潮﨑は今一度信頼を再び得るため、愚直なまでにただひたむきに、己の色を殺して「優等生」として振る舞い続けてきていた。2016年6月13日に再入団を果たしてからも、そのキャラクターを変えることは無く、かつての明るい側面はなりを潜めていた。その大人しさを指摘した中嶋は「俺が目を覚まさせる」とも言った。

実際この試合は、もちろん悪い試合ではなかったが、二人のポテンシャルから考えれば、もう少し先があるのではないか、というような試合だった。潮﨑は敗れた後もしばらく優等生のままであったし、それは中嶋も同様だった。何故なら、これは静かな始まりだったからだ。試合後にマイクを手に取った中嶋は、ふと何かに気付いたような様子で「潮﨑、ありがとう」と声をかけた。
「潮﨑豪にはありがとうと、すみません。“覚悟が違う”って言ったことがありますけど、潮﨑の覚悟は十分にありました。だから、潮﨑、すみません」
二人のシングルはこの横浜文体までに3度あり、二勝一分で潮﨑が勝ち越している。だがこれらはいずれも、中嶋勝彦がヘビー級を主戦場とする前の、ジュニアヘビー級時代の試合だ。中嶋がヘビー級(本人曰く、体重はジュニアなので無差別級)に転向したのは2013年からだ。潮﨑がNOAHを退団したのは2012年12月末。潮﨑はヘビー級の中嶋勝彦を知らない。一対一ではこの日、初めて遭遇した。
中嶋は中嶋で、潮﨑のNOAHにおける空白の3年間、全日本プロレス時代のことを知らない。なにゆえ生まれ故郷を捨て、なにゆえ再び帰ってきたのか。放蕩息子の帰還。彼の変化の理由は語られない。3年の間に得たものは。失ったものは。
だが、それらを言葉で語る必要はなかった。バックステージでのインタビューで、中嶋は次のように語っている。
「今日の試合から潮﨑豪の気持ちは伝わったんで。試合を通じて潮﨑選手と会話したように思います」
同じ2004年デビュー、偉大な師匠の下で育ち、お互いを常に意識していた二人は、この日のシングルで出会い直し、リング上で腹を割って語り合い、そしてお互いに連なる縁を改めて見出した。
「俺たちはまだ美味しくないから。今日の試合をキッカケに、美味しくなると思います」

 

「すべて受け止めてくれて、ありがとう」

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 そして2019.12.3、15周年特別記念試合でのスペシャシングルマッチに至る。
15年分の思いと覚悟を乗せた試合は、お互いのキャリア屈指の激戦となった。潮﨑ファン、中嶋ファン、どちらに尋ねても、この試合をベストバウトとして挙げる者は多いだろう。

お互いが得意としている逆水平チョップとキックの猛打戦に留まらず、エプロンへの投げ落としや徹底した右手破壊など、エグい攻防でお互いの勝負への執念、怖さがしっかり出ていたのも良かった。
20分経過後のゴーフラッシャー、そこからの流れが白眉だった。
続く豪腕ラリアットを的確なハイキックですべて右腕に当てて阻止、リバースフランケンシュタイナーからの三角蹴りはキャッチされたが、その体勢を利用して一旦着地してから中嶋が出したのはカナディアンデストロイヤー。カナダ人レスラーピーティー・ウィリアムズが開発した難度Sの360度回転パイルドライバーである。中嶋がこの技を出したのは、GHC王者時代切っての死闘となったブライアン・ケイジ戦以来だ。あの時はこの技がすべての流れを変えた。
しかし潮﨑はこれを受けても倒れなかった。前後からのサッカーボールキック、ランニングロー、そして満を持してのヴァーティカルスパイク。
冒頭に書いた「特別にエグい杉浦貴のエルボー」の話に被るが、急角度、猛スピードの「特別にエグいヴァーティカルスパイク」だった。
決まったかと思われた瞬間、潮﨑はキックアウト。立ち上がって中嶋のハイキックを避けるや、次に出したのはスリーパースープレックスだった。
スリーパースープレックス! 師匠・小橋建太がビッグマッチでここぞという時に使った奥の手である。こういう時に普段使っていない師の技がスッと出てくるのが潮﨑だ。
畳み掛けるように豪腕ラリアット、しかし2発目のショートレンジは読まれていた。勢いを利用して抱え上げると、中嶋が久しぶりに出したのはダイヤモンドボム。
ダイヤモンドボムは、2014.7.21博多大会で丸藤の持つGHC王座に挑戦するに際し、開発した新技だった。師匠であり育ての親でもある佐々木健介の得意技ノーザンライトボムをアレンジした形の投げ技。初公開は前哨戦の7.18新発田大会。丸藤からこの技でスリーカウントを奪っている。技の命名由来は「DIAMOND RINGを代表しているから」だ。この年、2014年の2月11日に中嶋に敗れた佐々木健介が突然の引退を発表。3月9日の道場マッチを区切りに、所属3人のうち北宮はNOAHに正式移籍、梶は引退。ただ中嶋勝彦ひとりが所属として残っている状態だった。この新技を発表する5カ月前には、上述の通り「育ての親に捨てられた」という心境に陥っていたという中嶋は、いかなる思いを込めてこの技名を付けたのか。だがその後、2015年7月31日付でDRを退団して以降は、当然のなりゆきとしてこの技も封印状態にあった。*10その封印が解かれたということは、過去からの解放であると同時に、己の過去を捉え直し、受け止めたという証左でもあるだろう。
これを受けて四つん這い状態となった潮﨑の顔面を目掛け、追撃のサッカーボールキック。丸藤の言う「ひとでなしキック」だ。これで幾人もの選手からKOを奪っている。
ふらつきながらも立ち上がった潮﨑に、容赦なく左右のビンタを叩きこむ。ここで崩れたらもう終わりだ、というその瞬間、潮﨑の体がスッと下がって回転した。渾身のローリングエルボー。言わずと知れた、いま一人の師である三沢光晴の代名詞とも言える技だ。今年の6.9後楽園ホール大会、三沢メモリアルで丸藤を相手に出した“原型”エメラルドフロウジョンはまだ記憶に新しいが、潮﨑は三沢の技も(小橋の技同様に)引き出しに入れている。*11というか、ローリングエルボーに関して言えば、ヘビー級選手の中では屈指の使い手だろう。この一撃が流れを変えた。
よろめいた中嶋だったが気力で体勢を立て直し、25分過ぎに再び中盤よりも激しいチョップとキックの打撃戦。だがローリングエルボーの余勢で圧倒した潮﨑が、すかさず第2の必殺技リミットブレイクを敢行。ここでほぼ勝敗は決した。続く豪腕ラリアット3連発、しかしなおも立ち上がる中嶋を見た潮﨑は、意を決してコーナーへと上がった。
天高く弧を描いて宙を舞う、183cm、110kgの完璧なムーンサルトプレス*12
29分30秒、死闘に終止符が打たれた。
2年前の文体での王座戦ではまだ予兆を感じさせるに過ぎなかった、二人が持てる引き出し、持てるすべての力をぶつけ合い、互いのすべてを受け止め、試合の中でさらに高め合っていくような凄まじい試合だった。スウィング、共鳴する試合という言い方もあるが、ここまでのスウィングが起きる組み合わせは、過去のベストバウトを参照してもそう無いだろう、というレベルだった。しかも、ノンタイトルの記念試合なのである。
2年前から何が変わったかと問われれば、それはやはり対戦経験を積んだこと以上に、二人が組んだことが大きかったのだろう。
お互いをより深く理解し、より強く「愛した」こと。また15周年の区切りを迎え、二人が共にそれぞれの過去を捉え直したこと。
この12.3後楽園ホール大会15周年記念試合は、二人のキャリアの最後まで、そしてその後も語り継がれる一戦となるはずだ。
この先何が起こるかなんて、神ならぬ人の身には何もわからない。
だがすでに起きた出来事――過去の一瞬一瞬は不変だ。

愛はすべてを超越し、永遠へと至る。

 

途中のアメプロの話が無駄に長すぎて謎な文章になってますが、割とこう、整理はしたものの普段の思考を取って出ししたような内容です。こんなことを考えて生きています。観念連合野が無駄に働きすぎている気もする。
潮﨑がTwitterでこの試合に際し、「至上の愛」という形容を使ったので、コルトレーンのA Love Supremeやんけ……となってなんかこう……一文書いておこう……となっておりました。なんですかね。でもほんといい試合だった(語彙削減)。

 

そして1.4後楽園ホールでは、ついに現王者であり、前タッグパートナー清宮海斗への挑戦が決まったのです。この1年ずっと待ってたよ……。
ヘビー級生え抜きというだけでなく、三沢を知らずして三沢へ傾倒したスタイルの清宮。まるで潮﨑が三沢と組んだ2009年のGTLをなぞるような形で、2018年のGTLを制したタッグパートナー。

2009年6月13日の三沢逝去から約半年後の11月18日に発売された週刊プロレス1500号記念号で、潮﨑はNOAHのGHC王者として、当時の全日本プロレス三冠王者小島聡新日本プロレスIWGP王者棚橋弘至と鼎談を行った。
この時、司会者(タナ番の記者)が「潮﨑選手も初戴冠では泣きましたか?」というちょっと信じがたい質問をしている。
潮﨑の初戴冠は6.14博多スターレーン大会、三沢逝去の翌日だ。同じく13日に起きた、当時のGHC王者秋山準椎間板ヘルニアによる緊急入院を受けて急遽組まれた王座戦である。泣きながらアップをしていたのを見た杉浦貴に「泣くのは終わってからにしろ」と言われた潮﨑は、その言葉通り、力皇猛相手の激戦に勝利をおさめた後、バックステージで泣きじゃくりながらの会見をした。そのことを知らずとも、「三沢逝去の翌日」ということを認識していれば、まずこんな質問は出ないだろう。恐らく、腐っても週プロの記者、認識はあっただろうが、実際に目の前にした潮﨑の天性の明るさ、無邪気さから、それが頭からうっかり抜けてしまったのだと思う。
この時、この記者が一瞬浮かべていたであろう、「初戴冠で泣く潮﨑の図」を想像するに、「デビュー以来師匠の元で努力を重ね、海外遠征などを経て実力をつけ、苦労が報われる形でようやく最高王座を手にした若き王者。感動で思わず涙を浮かべる」というキラキラしたものだったのではないだろうか。

それはまさに、清宮海斗に他ならない。

潮﨑豪が、一切の影を背負うことなく、悲しみの涙に彩られることなく頂点へと昇り詰めていたら……。
清宮海斗はそう言った意味で、潮﨑にとってもう一人の自分のような存在である。
しかも、光の側の自分だ。
これに勝つのは彼がその15年の道程で積み上げた正負すべての経験と、そのすべての愛の重みによるしかないだろう。

今はただその愛を信じている。

 

 

 

小橋健太、熱狂の四天王プロレス

小橋健太、熱狂の四天王プロレス

 
2009年6月13日からの三沢光晴

2009年6月13日からの三沢光晴

 

*1:同じコラム内で永田裕志によれば山本小鉄は「ケガをする奴がダメなんだ」と語っていたという話も引用されている。これは「攻め」に重きを置く猪木的、新日本的な思想の現れであり、このエントリの本題である「愛(相互理解)」の問題ではないと思われる。同じく新日本でレフェリーとしても活躍した保永昇男は「プロレスは明日のある戦い」であるといい、受け身の取りにくい技を出した選手を指導したこともあったというが。

*2:例外として2004年に行われた新人オーディション番組「タフイナフ」があげられる(ザ・ミズがデビューした)。これに関しては、当時、自分たち自身で立ち上げたインディー団体「オメガ」からの叩き上げであるハーディーズの二人が「経験値が圧倒的に低いド素人」をリングにあげることに対し苛烈な批判をしていたことも付記しておくべきだろう(自伝『ザ・ハーディ・ボーイズ』参照)。

*3:ついでに言えば、三沢本人が元々「ガラスのエース」という不本意なあだ名を頂戴するほどケガが多かったというのもあるだろう。

*4:これは四天王プロレス及びNOAHにおいてのみ成立する論法だと私は思う。明らかに「かけ手が悪い」事例も、「やりすぎ」の事例もある。拳王と清宮の件の是非に関しても、私はなんとも言えない、という気持ちだ。ここに書いたのは、論法としてはそうなる、という話である。

*5:心構えのない客に突然聞かせる内容でもない。イベント現地におりましたが、ショックすぎて帰りの電車でボロボロ泣いておりました。

*6:それが言いたくてこのエントリを書きました。「本人そんなこと考えてへんやろ」というツッコミは承知の上で、例え本人が無意識だろうとも、そういう読み解きができるということ。

*7:ちなみにトークショーではこの回答の結びに「あれ? なんかみなさんリアクション取りにくい感じに…? ワ~!(両手を広げておどけるジェスチャー)」と無理やりカワイイポーズで話を切り替えていたことも書いておこう。そのあとは概ねカワイイ話をしていました。カワイイな~。頭が混乱します。

*8:という表現をしている。

*9:とこの当時は思った、と書いている。

*10:一応王座戦の類はざっと再確認したけど使ってないはず。

*11:若手時代の七番勝負では、三沢本人相手にウルトラタイガードロップを出したりしていた。

*12:潮﨑がムーンサルトで勝利したのは、全日本プロレス所属時代の2015.7.25の世界タッグ王座戦青木篤志相手以来である。この後、2018.8.18の川崎大会でも杉浦貴とのGHC王座戦で出してはいるが(入場曲がENFONCERに戻った試合だ)、これは剣山で撃墜されている。潮﨑は、2015年11月のNOAH再参戦以来、その前の全日本時代の3年間と比べて、時に新技を試しつつも、基本的には技を絞って厳選している様子があった。