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Gazes Also

…もまた覗く

悪魔には鏡を

 『死人は語らない。死んでしまった人たちが語ることができたら…私たちは生きていられるだろうか? 泣いても泣ききれない。言葉の代わりに涙が出て……』

私は、そういう人たちに頼む、話してください…黙っていてはだめ。悪魔には鏡を突きつけてやらなければ。「姿が見えなければ、痕跡は残らない」なんて悪魔に思わせないために。その人たちを説得する……先に進んでいくために。自分自身も説得しなければならない。

(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』岩波現代文庫版・P372)

 

2015年度のノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』と『チェルノブイリの祈り』を続けて読みました。

どちらもインタビューによる当事者の肉声を作者の手によって再構成したドキュメンタリーです。「ドキュメンタリー文学の最高峰」という帯文に違わぬ凄まじさを持った二冊でした。スヴェトラーナでなくてはこれらの言葉を発した人々を見つけ出せず、また彼女でなくてはこれらの人々からこうした言葉を引き出すこともできないでしょうし、何より彼女でなくてはこれらの声や叫びを編み上げ、ひとつの合唱曲へと昇華させることはできなかっただろうと断言できます。

取り上げられた人々はそれぞれに個性を持ち、それぞれに異なる方向を向いた人間です。まず、読者が触れるのは人間の多様性です。焼き尽くされるソドムとゴモラを直視した人々が林立する塩の柱の森。それぞれに刻まれた相貌は固有の、彼や彼女でしか持ち得ないものです。彼らは皆個人的な体験を話しています。歴史というにはあまりに小さな欠片たち。しかしスヴェトラーナはこれらの小さな小さなパズルのピースを並べ、この巨大なふたつの災厄を直接見ていない読者たちにも、その恐怖の全体像を感じさせることを成功させました。

ソ連という国家を舞台にしたドキュメンタリーというと、特殊な社会体制ゆえに生まれた悲劇であろうと憶断する人もいるかもしれません。

しかし、読み始めればすぐにこれは普遍的な人間の話であることがわかるでしょう。いつの時代も変わることのない人間の死、人間のあやまち、人間の苦しみ、人間の愛、そして尊厳と生の物語がそこにあります。

 

◆『戦争は女の顔をしていない』

戦争は女の顔をしていない (岩波現代文庫)

戦争は女の顔をしていない (岩波現代文庫)

 

ソ連は世界でも先駆けて、憲法に男女平等を謳い、その理念どおり女性も兵士として戦場へ赴かせた国家でした。ただ理念は先行していたものの、実情はなかなか伴わず、女性の扱いは必ずしも平等ではなく、女達は旧弊的社会が連綿と守り続けてきた「女という性別のありうべき態度」という見えない規範に苦しめられ続けます。(これは現代日本とほぼ同じ構図ですね)

独ソ不可侵条約ナチスの侵攻によって破られ、戦争が始まった1941年、スターリンは開戦の演説で、これまで掲げてきた共産主義の理念を口にしませんでした。「大ロシアの兄弟姉妹たちよ」と語りかけ、人々が持つ国土愛の覚醒を促したのです。戦争の名前は「大祖国戦争」。ナポレオンの侵攻を防いだ1812年の「祖国戦争」にあやかった名前です。これは36年~37年の大粛清を経た国民たちにとっても強く響く言葉となり、志願兵の登録所には老いも若きも人々が殺到しました。

私の叔父はコルイマの収容所に入っていたの。おかあさんのお兄さんで鉄道に勤めていた。昔からの共産主義者だったの。それが職場で逮捕されて誰が逮捕したか分かるでしょ? 内務省(NKVD)よ。うちの大事な叔父さんを。私たちは叔父さんがまったく悪くないって分かってたわ。信じていた。だって国内戦(1917年のロシア革命の後につづいた革命軍と反革命軍の戦争)の時にはもう勲功をたてていた人よ……。でも、スターリンの演説のあとでおかあさんは言ったの、「祖国を守りましょう。どういうことかはそのあとで考えましょう」って。みんなが祖国を愛していわ。私はすぐに徴兵司令所に駆けつけた。扁桃腺を腫らしていたのに。まだ熱が下がりきっていなかったけど。私は待ちきれなかった……。

エレーナ・アントーノヴナ・クヂナ 二等兵(運転手)

女性たちも国土を守らねばという愛国心に燃え、多くの女子学生や結婚したばかりの若妻、主婦まで様々な立場の女性が登録所を訪れました。しかし、当初軍の方では、女性の採用に対して消極的な思いがあったようです。そこには「女性が使い物になるのか?」という疑念と共に、「守るべき女たちを戦場に追いやるなどというむごい決断はしたくない」という哀れみがありました。しかし、電撃戦によって先手を取ったナチスに次々に都市が落とされ、包囲されていく現実にもはやなりふりも構っていられず、女性たちは適性を計られ、軍の様々な仕事に就くことになります。

その日に私は十八歳になったのです。喜びにあふれていた。私にとってはお祭り。まわりではみなが「戦争だ!」と叫んでいて、みな泣いていたのを憶えています。街で会う人みなが泣いていた。祈っている人もいた。見慣れないことだったけど……。外にいる人たちがみな泣いたり、十字を切ったりしていたんです。学校では神なんていないと教えていたのに。

セラフィーマ・イワノーヴナ・パセナンコ 少尉(自動走砲大隊準医師)

母は汽車に駆け寄ってきた……。母は厳しかった。決してキスしてくれたり、ほめてくれたりしたことがない。何かよいことをしてもただやさしくながめるだけ。それが、突然駆け寄ってきて、あたしにかじりついてキスをするの。何度も何度も。そしてあたしの目をのぞき込んだあの目! じっと。長いこと……。おかあさんにもう二度と会えないんだと悟った。

タマーラ・ウリヤノヴナ・ラディニナ 二等兵(歩兵)

話を総合すると、若者たちは血気にはやり、第一次世界大戦からの長い内戦期を知る中高年は嘆き悲しんでいたようです。そうした戦争経験を、これらの世代は若者たちに伝え損ねていたのでしょう。

戦闘機のパイロットや狙撃兵、戦車兵から、通信兵、工兵、衛生兵、洗濯兵、炊事兵、戦場のありとあらゆる場所に女性たちは赴きました。彼女たちの華々しい活躍を知りたい方には、エースパイロットのリリー・リトヴァクをメインに書かれたブルース・マイルズ『出撃!魔女飛行隊』をお勧めします。タイトルはちょっとひどいですが、内容は誠実で、やはり華々しい活躍の裏側もきちんと書かれた良書です。

出撃!魔女飛行隊 (学研M文庫)

出撃!魔女飛行隊 (学研M文庫)

 

 『戦争は女の顔をしていない』ではこうした戦史に載ることのない、一般兵やパルチザンたちの証言が取り上げられていきます。文庫にして482ページに及ぶ彼女たちのあらゆる種類の言葉、証言、祈り、呪詛、そこにこめられた感情はひとつひとつまったく異なる趣を持ちます。女という性別でひとくくりにされることのない多様性。階級や部隊名に興味が無い女が語り終えるや否や、部隊名や作戦名、日時その他諸々を細かく記憶した女が語り始める。少しでもおしゃれをしたくて包帯のガーゼを軍服の襟にまるでレースのように縫った女もいれば、もはやおしゃれに興味をなくし、詰襟の軍服が自分そのものになってしまった女もいる。

この本の紹介をしている文章をいくつか読んだのですが、やはり「女特有の感性(とされているもの)」の側のみを拾うものが多かった印象です。女性の工兵小隊長の話よりも恋の話が珍しいと思われるのは仕方が無いのかもしれませんが、それではあまりにも片手落ち。

タイトルが『女の顔をしていない』なのも本当はふさわしくないのではないかと思います。正しくは、『戦争は人間の顔をしていない』のです。

結論から言えば、女たちは男性と同等に働き、同等に苦しみ、同等に歪み、同等に傷つきました。取り返しの付かない傷、欠損、決して癒えることのない精神的外傷。繰り返されるのは、戦地では男たちとまるで兄妹のようであったという言葉です。始めは女性の働きを認めていなかった男たちも、やがて認めるようになり、そして助け合わなければ生き残れないと理解するようになるのです。

衛生兵というと後方で安全なイメージですが、実際は異なります。歩兵たちが撃ち合う戦場で、負傷した者がいればそこに飛び出し、動けなくなった者を引きずって自陣へと連れ帰るのが第一の仕事なのです。

洗濯兵ならどうか? あまりの洗濯物の量と重さに、彼女たちの部隊は残らず脱腸しました。戦場で尊厳を保っていられる人間などいません。

最も悲惨なのはパルチザンたちであったかもしれません。森に隠れ、ナチス占領下の村々の解放を目指して戦う彼らは、村に残した自分たちの家族を人質に取られ、弾除けにされたり拷問をされたりするという苦しみを背負って戦わなくてはなりませんでした。飢えに苦しみ、匿ってくれた人々を殺され。ぼんやりした感覚ですが、21世紀に戦争が起きると「出兵」というよりこちらのパルチザン状態に似たものの方が一般的になってしまうのではないかという恐怖感があります。

 やりきれないのは、戦後の話です。

戦地に行った女たちは、銃後に残った人々から忌まわしい存在として扱われ、まっとうな生活に戻ることができなくなってしまうのです。

先にも書きましたが、男女平等の理念は先行していたものの、実質的な生活に浸透しているとは言いがたい社会でした。そこで従来的な「女の規範」を超えた人々は、忌み嫌われ様々な悪罵をもって迎えられたのです。戦地では肩を貸しあった男たちは沈黙し、彼女たちを庇うこともありませんでした。 赤星勲章などそこでは役に立ちません。

彼女たちはほとんどみんな、ごく普通の少女たちでした。ごく普通に育ち、ごく普通の感覚で自ら志願して戦地に行ったのです。多くの者は戦地で尊厳を失って倒れ、生き残った者も残りの人生を歪なものへと大きな力で決定的に変えられてしまいました。

訊きたい……もう訊けるわ……私の人生はどこへ行っちゃったの? 私たちの人生は? でも私は黙っている。夫も沈黙している。今だって怖いの。私たち怖がっている……恐怖のうちにこのまま死んで行くんだわ。怖いし恥ずかしいことだけど……

ワレンチーナ・エヴドキモヴナ・M パルチザン(連絡係)

夏になると、今にも戦争が始まるような気がするんだよ。太陽が照りつけて、建物も、木々も、アスファルトも温まってくると、あたしには血の匂いがするのさ。何を飲んでも食べてもこの匂いからのがれられない! きれいなシーツを敷いても、血の匂い……

(中略)

薪の数よりもっと死体を見て来たよ。白兵戦の恐ろしさときたら、人間が人間に襲いかかっていくんだよ。銃剣を構えて。どもってきて、何日もまともに舌がまわらなくなったよ。戦場に行ったことのない人にこんなこと分かるかね? どうやって話したらいいのか、どんな言葉を使って? どんな顔して? 言ってご覧よ、どんな顔してこういうことを思い出しゃいいのか? 話せる人もいるけど、私はできないよ……泣けてきちゃうよ。でもこれは残るようにしなけりゃいけないよ、いけない。伝えなければ。世界のどこかにあたしたちの悲鳴が残されなければ。あたしたちの泣き叫ぶ声が。

タマーラ・ステパヴノナ・ウムニャギナ 赤軍伍長(衛生指導員)

 

 ◆『チェルノブイリの祈り』

チェルノブイリの祈り――未来の物語 (岩波現代文庫)

チェルノブイリの祈り――未来の物語 (岩波現代文庫)

 

 

この本が最初に日本で刊行された1998年、これらの証言はある種SF的な物語として捉えられたかもしれません。終焉を迎えた統制国家と、終末思想に濃く彩られた滅びゆく世界の描写として。

しかし2011年に東日本大震災とフクシマ原発事故をすでに経験した日本にとって、これは有り得たかもしれないひとつの未来であり、また進行している現在でも有り得る当事者性を帯びています。少なくともただの過去の、鉄のカーテンの向こうの物語ではありません。

チェルノブイリの祈り』に書かれた世界を私たちはよく知っています。歴史的大事故であるにも関わらず問題が公に議論されず怪しげな論理がまかり通ることや、私たち自身が実際に起きた悲劇を率先して忘れ無効化しようとする愚かさ、そうした状況を作り出すマスメディア統制とプロパガンダはすでに身近なものとして存在しています。

まず、私たちは公平ないいくらしをし、わが国民は最高であり、あらゆるものの規範であるという信念があった。この信念がくずれさったため、梗塞をおこしたり自殺をした人が大勢います。レガソフ・科学アカデミー会員のように、心臓に弾丸を撃ち込んで。なぜなら、信念を失い、信念をもたないままでいるなら、もはや参加者ではない。共犯者なんですから。弁解の余地はありません。

マラト・フィリポビッチ・コハノフ ベラルーシ科学アカデミー核エネルギー研究所、元主任

チェルノブイリ原発から発せられた大量の放射線によって汚染された村々、狂う計器の中で働き、死あるいは取り返しのつかない障害を負った兵士たち(彼らの多くはアフガン帰りの戦争経験者でもあった)。故郷を失う人々。子供を持つことができなくなった夫婦。病んだ子供たち。

この災厄の物語は、ミクロな視点でみれば人間が誰もが晒されている不条理の悲劇について書かれたものでもあります。ただ、人災でもあるという側面を忘れてはいけません。未然に防げたかもしれない不条理なのです。

本の冒頭に紹介されているリュドミーラ・イグナチェンコの証言は特に胸を抉ります。消防士として最初にチェルノブイリ発電所に向かったワシーリイ・イグナチェンコの妻であった彼女は、被爆によって凄まじい姿に変わり果てていく夫を、彼が死に至るまでの14日間看病し続けます。

私たちは結婚したばかりでした。買い物に行くときも手をつないで歩きました。「愛しているわ」って私は彼にいう。でも、どんなに愛しているかまだわかっていませんでした。考えてみたこともなかった。

(中略)

彼は変わりはじめました。私は毎日ちがう夫に会ったのです。やけどが表面にでてきました。くちのなか、舌、ほほ。最初に小さな潰瘍ができ、それから大きくなった。粘膜が層になってはがれ落ち、白い薄い膜になって。顔の色、からだの色は、青色、赤色、灰色がかった褐色。でもこれはみんな私のもの。私の大好きな人。とてもことばではいえません。書けません。

私は彼を愛していた。でもどんなに愛しているかまだわかっていなかった。

(中略)

当直の看護婦にいう。「夫が死にそうなの」。彼女は答える。「じゃあ、あなたはどうなってほしいの? ご主人は一六〇〇レントゲンもあびているのよ。致死量が四〇〇レントゲンだっていうのに。あなたは原子炉のそばに座っているのよ」

ぜんぶ私のもの。私の大好きな人。

(中略)

病院での最後の二日間は、私が彼の手を持ちあげると骨がぐらぐら、ぶらぶらと揺れていた。骨とからだが離れたんです。肺や肝臓のかけらが口からでてきた。夫は、自分の内臓で窒息しそうになっていた。私は手に包帯をぐるぐる巻きつけ、彼のくちにつっこんでぜんぶかきだす。ああ、とてもことばではいえません。ぜんぶ私の愛した人、私の大好きな人。大きなサイズの靴がなかった。素足のまま棺に納められたんです。

(中略)

原発の職員はみな近くに住んでいます。一生原発で働いてきた人たち、いまでも交代要員として原発に通っています。ほとんどの人は恐ろしい病気や障害がありますが、原発をはなれられないのです。今日、どこでだれが彼らを必要とするでしょうか? たくさんの人があっけなく死んでいく。ベンチにすわったままたおれる。家をでて、バスを待ちながら、たおれる。彼らは死んで行きますが、だれも彼らの話を真剣に聞いてみようとしません。私たちが体験したことや、死については、人々は耳を傾けるのをいやがる。恐ろしいことについては。

でも……私があなたにお話ししたのは愛について。私がどんなに愛していたか、お話したんです。

不条理を前にしても、人間の尊厳や愛は確たる形で存在し輝きを失うことはないということをこのリュドミーラの言葉は教えてくれます。さればこそ人間の生に価値はあると。しかしながら、それすらも忘却の前には無力なのです。さらに言えば、これは起きなくても良かった悲劇なのです。本来ごくありふれた幸福な恋人たちが、愛する人が口から吐き出す臓物を掴んで取り出さなくてはならなくなる必要はないのです。

リュドミーラはこの時妊娠していました。一六〇〇レントゲンをあびた夫の看病についたことで、その子は死産となります。これは愛の物語ではありますが、まったく美談ではありません。塗炭の苦しみ、生きながら味わう地獄の物語です。

 

この二冊が持つテーマはあまりに多く、戦争、民族、政治、宗教、不条理、生、愛、平等、自由、ヒューマニズムの切り口からもリベラリズムの切り口からも、それぞれに異なる紋様を見てとることができます。

しかしそのすべてに共通しているものは、このふたつの災厄がもつ魂をも握りつぶす恐怖に他なりません。そして今生きている私たちは、まだ偶然にもこうした災厄に遭っていない幸運な人間であるということに過ぎません。彼我には何の違いもないのです。

我々にできることはそう多くありません。ただ、悪魔に鏡を見せてやることはできます。事実をありのままに知ること。悪魔の顔を正面から見つめ返し、私たちの瞳の中に悪魔の顔を映す。

目を逸らしてしまえば、すべては再び血と汚泥の中へと沈んでいくのです。それを防ぐためにも、どうかこの2冊がもっと多くの人に読まれますように。

 

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